触れた手が暖かくて。
冷え切った身体に。
ううん、違う。

冷え切った心に触れた手に。
私は千年の恋を手にした気がした。




046.5:名前−番外編




きっと分からないわ。


私はそう思って駆け出した。
とにかくその場から逃げたかったの。

普通に声が出せる人には分からないのよ。
こんな人間じゃないような声を。
素敵な声を持っているだろう貴方に。
ましてや。



それが好きな人なら、尚更。




少し前まで出た声が。
事故で声帯も傷ついて。
言葉の出し方は知っているのに。
それが思うように出ない辛さ。

どちらが辛かったなんて。
どちらも辛かったに決まってるけど。
あくまで私の場合。
聴覚は完全に失ってしまってどうしようもなかったけど。
微かに発することが出来る声は。
どうしても諦めることが出来なかった。

自分が正しく発したつもりでも。
テープに録って他人が聞いてみても、
返ってくる言葉は皆同じ。


"何を言っているのか分からなかった。"


そんな絶望を何度背負っても。
微かに出る声を。
諦めることが出来なかった。

それを見かねた養護学校の先生が、
「手話は、どう?」と話を持ちかけてくれた。
今に思えば必死に声を出そうとする私を
何とかして逸らしたかったんだろう。
いつも鞄には録ったカセットテープを。
"戒め"という名目の元に持っていたから。




手話を、覚えた。
手話で、会話することを覚えた。
人の顔を見ながら会話することが、
こんなにも楽しいことだなんて思ってなかった。
きっと、こうならなかったらずっと気付かなかった。
他人の瞳というのは、こんなに良いものだと。

手話を見て、瞳を見て。
私はいつからか瞳からも読み取れるようになった。
雰囲気とかそんな多少のことだけだけれど。




そして。
人とは残酷だとも思い知った。
障害者への奇異な瞳は後を絶たず。
私もこうだったかと思うと。
辛くて泣いた日もあった。

人間は。
自分のためにならないことにはすぐ飽きて。
最初は善意で近寄っても。
面倒なことになればすぐに逃げ出す動物。

養護学校から出れば。
私のことを分かってくれる人なんて居ないと思ってた。
そんなとき。
彼に出会った。




いろんな話をしたね。
会うたびに手話が上手になって。
驚いた反面、私はすごく嬉しかったわ。
もっとたくさんお話がしたいって。
初めて外で出来た、私の友達ですもの。


"耳が聞こえないっていうのはどんな感じ?"


という質問が出来る仲までなって。


"海の底、音のない暗闇にいるような感じ"


と、答えれば。
彼は寂しそうに笑んだこともあった。

いつしか。
彼のことが好きになっていた。
一生懸命、私に言葉を伝えようと。
どんな些細なことでも気にかけてくれて。
どれだけ彼に助けられたか。
指だけじゃ数え切れないほど。

でも。
私は彼とは違うから。
違うと思いたくなくても、違うから。
彼に想いを伝えるなんて。
怖くて出来なかったの。

彼は"好きだ"と伝えてくれたのに。
どこかまだ、怖くて。
きっと面倒だと放り出されることばかり考えて。
私は返事が出来なかった。

彼は怒鳴った。
聞こえはしないけれど、空気で読めた。
痛そうに顔を歪め。
必死で私に伝えているのに。
私には聞こえない。伝わらない。

初めて自分を呪った。
親を、憎しんだ。
どうして私は耳が聞こえないのか。
愛しい人の苦しい気持ちが聞けないのか。

強がってただけなのよ。
逆境に負けたら、全て終わるから。
自分も、両親も。
全てが灰色の世界になってしまうから。
負けないように必死にもがいて。
強いフリを、していたの。


"ごめんなさい"


どこかで。
彼が助けてくれるような。
暗い海の底から、明るい海の外へと。
彼と一緒に行けるような。
夢物語を想っていた。




走って、走って。
私にとって必要のない電話ボックスが目に入って。
一心不乱に入って。
後は透明の板に凭れて、ずるずると座り込んだ。

ああ、なんて悪い子。
やっぱり親を恨んでいるのね。
あんなに大丈夫だと言ってたのに。
虚勢を張ってただけなのね。

きっと彼に絶望されてしまったわ。
なんて、自分勝手な子だと。
両親のせいじゃない、なんて奇麗事だったのか。
そうじゃない、と否定したくても。
私一人じゃ出来ないよ。

どうせ最後なら。
一度ぐらい恋人同士のような真似事をさせて?
切ってくれても構わないから。
自己満足を、させて  ?




携帯電話を取り出して。
彼の電話番号を表示して。
今まで使うことなかった通話ボタンを押して。
耳に当てた。

無音。
本来なら聞こえる電話音も。
この耳じゃ一生聞こえることはない。


「わ、げぎ、……ぎょり、ろ……」


私が出せる声を。
最大限に発揮して呟いた。
録音すればきっと酷いものに違いない。
それでも。
彼の名前を呼びたいの。


「が、げぎ……ごず、りょ……」




しばらくして。
影が私の身体を包んで。
見上げれば。


"ア・イ・シ・テ・ル"


降ってくるのは彼の気持ち。
昇るのは私の気持ち。

私、こんな女なのに。
こんな女なのに、良いの?
虚勢を張ったただのしょうもない女だよ。
でも。
貴方のこと私も愛して止まないの。




お互いのことを話そうよ。
きっとがっかりさせちゃう。
それでも。
貴方が私を受け入れてくれたら。


「こじ、ろう……」


もう1度呼んであげるわ。






+++++++++++
おまけ編、主人公サイドでした。
どうしてこれが書きたくなかったか。
自分の中で整理をつけたかったから。
結局は自己満足。
でもそれで、私は満足なのだ。


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