"待ってて欲しい"


なんて。
言える立場じゃないのは百も承知だ。

それでも。
そう思うのは。
そう願ってしまうのは。



お前を想って仕方がないから。




077:欠けた左手




「聞いたよ、留学の話」
「……ああ」
「……本当なんだね」


マフラー越しに吐いた息が白くなって昇っていく。
横目での方を見ても、
顔の半分がマフラーで隠されていて読み取ることが出来ない。

だからと言って。
今の俺にはを正面から見る勇気が伴わない。

悲しそうな表情も胸を締め付けるが、
無理して笑顔されると余計に胸が痛い気がする。

自分勝手だとは分かっている。
ドイツに留学することを決めたのは自分であって。
テニスをするには最良の環境だと一度自分で目にしている。
このままテニスを続けていく上で必要なことなのだ。


のことを、考えなかった訳じゃない。
気持ちを素直に表情を出さない俺を。
は何かと気付いて、それを言葉にしてくれて。
俺にとってはかけがえのない大切な存在で。

離れることを考えると、息がつまりそうだった。
留学の決意は何度も揺らいだ。
それは、のことを考えるから。
実は今もまだ、揺らいでいる。


だが。
俺は、プロになる。
自分の力量を測るために。
世界で自分の腕を試すために。
それはテニスを始めてから決めていた、誓いに似たモノ。



何より、テニスが好きだから。



どちらかを選ぶなんて俺には到底出来ない。
出来ることならどちらも手に入れたい。
だが、それは叶わぬ願い。

テニスを捨てることも。
を手放すことも。
俺には到底選ぶことが出来ない。

だから。
顧問に相談するままに事を運ばせて。
いつの間にか俺の留学は決まっていた。

決して行きたくない訳ではない。
俺のプロへの道の第一歩目。
それは俺の夢でもあるのだから。

ただ。
俺のこの行為は。
周りから見ればらしくないだろう。

そして。
にも、言えなかった。
黙っていくことなど到底不可能なのに。
それでも、ドイツ行きを告げることは出来なかった。

に悲しい思いをさせるから、と。
何度も胸の内で唱えて、逃げていた。
それは自分への口実に過ぎない。


俺が。
と離れるという現実を。



直視したくなかったからだ。



「……もう、決めたんでしょ?」


繋いだ右手に力が入った感触が身体を駆け抜けた。
それが俺の足を止めるには十分の効力を持った。

の声は少し上ずっていて。
の左手は微かに震えていて。
の息は先程より白く曇って昇り続けて。

こうなること。
俺は分かっていた。
が泣き濡れることなど。
行くかと悩んだときに1番最初に想像したことだ。


「……」
「最近ずっと、何か言いたげだった。
 ……このことだったんだね」
「……ああ」
「まさか、友達から聞くとは思わなかったよ」


責めるような言い方。
それは俺には当然の報い。
普通なら当然俺がに告げることだ。
俺が、に全てを話すべきで。


「……じゃあ、ココで」
「え?」
「ココで、おしまい……っ」


力が入っていたの左手がすっと抜けた。
そして、俺でも分かる無理した笑顔で。
体温失くした紫色の唇でそう告げた。

真っ白い息に言葉を包んで。
俺は追いかけることも叶わずに、
その場に呆然と立ち尽くした。





「……フゥ」


出るのは溜息ばかり。
そして、思い出すのはあの情景ばかり。

すると。
トンッと肩に手を置かれ。
急いで背後と振り向けば、不二の姿。


「ドイツ語の勉強はどう?」


いつもの笑顔のまま、俺にそう問うた。


「……問題ない」
「そうだよね、前に1回行ってたんだし」
「まぁな」
「……問題は、別のようだね」


そう。
問題は別のこと。
俺の思考を支配するのは、まったく別のこと。

右肩に左手を置かれたのだって。
俺が本を読むのをなるべく邪魔しないように
がする仕草と似ていた。


そのまま柔らかく笑んで。


『読み終わるまで、待ってるから』


と、また柔らかい口調で言う。
そんな当たり前のことが。
今ではもうありえない。


「……何か用か?」
「英語の辞書、借りにきたんだ」
「ああ、そうか」
「こうやって手塚に辞書借りるのも後少しだしね」
「……」


なにか。
棘のあるような言い方をされてるのは気のせいだろうか。
終始崩れない不二の表情からは何も読み取れないが。


「……不二は」
「ん?」
「俺が、ドイツに行くのは反対なのか?」


机の中から辞書を取り出して、
不二の方に座りながら身体を向けて、
差し出された右手の上に辞書を乗せながら、そう聞いた。

不二はクスリと、笑みを零し。
受け取った辞書を転がすように、左手に移動させた。


「僕は反対なんかしてないよ。
 手塚は世界で戦うべき存在だとずっと思ってたから」
「……そうか」
「ただ、誰かを悲しい思いにさせてるのが許せないだけだよ。
 ……手塚らしくもない」
「……ッ!」
「それだけ、じゃあね。辞書は部活で返すよ」


返す言葉もない。
不二の笑みに込められたモノは軽蔑。
それを自覚した俺は、不二を見送るしか出来なかった。

デジャ・ヴュのように頭を掠るのが。
が俺の手を離し、駆けて行ったあの光景。
欠けた左手の温もりがまだ俺の右手から消えない。


いつも握っていた、あの温もりが。
何度消えろと命じても、消えることはない。



俺の右手はもう、の一部のなのかもしれない。



まるで、別物のようにの体温が宿って。
左手と右手を重ねると、まったく違う体温のような気がして。
それはただの思い違いだと笑うかもしれないが。


俺には、そう感じて仕方がない。


ああ、分かってる。
不二の言いたいことは痛いほど分かる。
俺だって自分のことを許せないのだから。





見かけた。
何度も、見かけた。
クラスが違うのが幸いしても。
の姿を目で追ってしまうのはもう、無意識で。

どこかしら寂しげな雰囲気を背負っているのは。
俺がそうであって欲しい幻想からか。
それは自分勝手な妄想か。

決して真実を俺は手に入れられないが。
友達と話していても、どこか上の空。
寝不足なのか目が充血している。



―――――泣いているのだろうか。



その訳を、俺は知っている。
だが、どうすることも出来ない。
俺の夢を、誓いを、突き通すためには。

どちらも手に入れたいなんて我侭だろう?
そんなこと、にとって苦痛にしかならない。
の人生を背負えるほど、俺はまだ出来た人間ではない。

手に入れたくても手に入れられない事実に。
俺は何度頭を悩ませても、答えはそこにしか至らない。


と、別れること。


が俺を忘れれば。
きっとすぐに辛い想いをしなくて済む。
そして、永遠の辛さを味わうのは俺1人で良い。

俺のことを許してくれとは思わない。
むしろ、憎んでくれとさえ思う。

だが、それではの心に俺が残ってしまう。
出来ることなら、俺の記憶全てが消えてしまえば良いのに。


そうしたら。
はもう、俺で泣くことはないだろうに。





「……!」
「……っ」


迂闊で不躾だった。
俺は、ココには来ては行けなかった。
いくらいつも読みたい本があったとしても。


出会うことぐらい、予想は出来ただろうに。


いつもの図書館。
大抵読みたい洋本はココに揃っていて。
いつも通りに洋本の棚で曲がると、そこに居た。

まるで軌跡を追うように。
本の背表紙を人差し指で順々になぞっていく。
それは俺が全て読み尽くした本の列だった。


『国光すご〜い、この本全部読んだの?』
『読みたい本が丁度この列にたくさん合っただけだ』
『それでもすごいよ、上手く自分の時間が作れて、読めるなんて』
『……そうか』
『うん、私も挑戦しようかな』
『……』
『あ、今無理だって思ったでしょ?』
『お前の英語の成績ではな』
『じゃあ絵本とかにしようかな、だったら大丈夫かな?』
『……さぁな』
『私だって絵本くらいなら読めるわよ〜』


あの、キラキラと潤いに満ちた光る瞳が。
俺の脳裏を一瞬にして駆け巡った。

青春を思い出す大人のように。
俺は深くその思い出に浸りたくなった。
幸せだった、その時期を。

だが、そうもいかない。
目の前にその思い出の人物が居るのだから。

去れ。
脳が命令する。
だが、身体が動かない。


「……久しぶり、だね」


沈黙の中で先に口火を切ったのはだった。
戸惑いがちに瞳を泳がせて、俺と視点を合わそうとはしない。
バツが悪そうに、背表紙から指を離す。


「……ああ」
「それも、相変わらず」


あれから2週間ほど経って。
卒業式は明日に迫っていて。
俺のドイツへの出発日も明後日になっていて。

もう会うことも違わないと思っていた、に。
こうやって会ってしまった、俺。

動揺がバレてはいけない。
それでは、に未練を残してしまう。


だが。
それ以上に上回る想い。
にこの時点で忘れたと告げられれば、
俺は果てしない絶望を背負いそうな気がする。

なんて自分勝手。
第三者から見れば呆れた想い。

それでも。
目の前の人物が好きで仕方ないのだから仕方ない。


「明後日でしょ、行くの」
「そうだ、な」
「今日中に読んで、返すんだね」
「……ああ」
「じゃあ、この図書館にももう来ないんだね」
「……」


慣れ親しんだ図書館。
ともよく来た図書館。
読みたい大抵の本が置いてある図書館。
俺が何より心が休まる、とても気に入っていた図書館。

確かに、名残惜しい。
しかし、それ以上に名残惜しいモノがそこにいる。

湧き出る泉のような我侭を。
俺は何とか必死に抑えた。


「……私ね、ずっと不安だった」
「不、安?」
「国光はいつか私の傍から離れること、感じてたから」
「……」
「その時は、絶対に笑顔で送り出してあげようって。
 ……そう、決めてたのに」
「……」
「実際、出来ないもんだね」


いつも潤っていた瞳。
いつも赤く染まっていた唇。
いつも柔らかく下げていた目尻。

紙一重で、それは悲しい表情に。
瞳いっぱいに溜まった涙が、
目尻から今にも零れそうなほど。
真っ赤に染まった唇が、微かに震えている。


「私は、国光がテニスしてる姿も大好きだから……
 国光が行くと決めたなら、……反対しないよ」
「……」
「……でも、私は国光が好きだから」
「……っ」
「別れることなんてっ、出来ないっ……!」
「っ」


涙を見せまいと俯いて。
そのまま駆け出して、俺の横を通り過ぎたとき。
無意識にの左手を掴んでいた。

の左手はいつも通りの体温を帯びていて。
違和感を感じさせないほど、俺の右手と一緒だった。
引っ張られるがままには足を止め、
苦しそうに言葉を吐く。


「"待ってて欲しい"くらいの言葉が欲しかった……っ!」


油断したのは、俺。
その言葉を聞いて、を掴む手が緩んだ。
それを感じて、は左手の束縛を解いて。
静かな図書館に走る音を響かせて、また俺の前から去った。





"待ってて欲しい"


それは、何より残酷な言葉。
子供な簡単な約束のレベルではない。
守れるか定かではない、試されるような束縛。

その約束で。
を縛ってしまうのが怖い。
俺以外の幸せが、きっとどこかで眠っているだろうから。

そして。
遠い海の向こうで。
何度も不安になるだろう、俺。
連絡を取ろうにも、昼夜逆転の生活でそれが出来るか不確か。

いずれ離れてしまうかもしれない不安。
後のことを考えてしまうと、今離すのが最適だと。
後で傷つくくらいなら、今傷ついた方が良いのではないかと。
そう思う俺は、強くない。





卒業式を迎えた。
中学と同じく答辞を頼まれ、読む。
壇上で生徒が座る中からすすり泣く声が聞こえた。
そして、居ないの席を見つめながら、読み始める。

卒業証書を受け取るとき、の名は抜かされた。
呼ばれるはずの名前がなく、俺はそちらに顔を向けると、
証書を受け取って帰って来る生徒の間にポツンと空いた席があった。
紛れもなく、そこはの席で。
俺は苦虫を噛み砕いたように顔を歪めるのを自分でも分かった。

スムーズに式は進み、終わった。
色々な人から声援を受け、俺は明日旅立つことを自覚する。
胸に引っ掛かる靄を何とか見ない振りして。
帰ってからはただただ、荷物をつめた。

どんなに嫌がっても。
夜は明けて、今日最後の部屋にも光が差し込んで。
詰め終わったバックを抱えて、下に降りる。


「今までお世話になりました」


父、母、祖父にそう告げて。
労いの言葉を受けて、俺はタクシーに乗り込んだ。
最後かもしれない日本の空をタクシーの中から見上げて。
もう俺はこの空の下に暮らせないことを少しばかり悔やんだ。

後悔がない、と言えば嘘になる。
こんなにも心残りがあるのだから。
だが、俺は今から夢にまで見た世界で戦うことになる。
生半可な気持ちではやっていけない、自分の力量を測るためにも。


「お客さん、着きましたよ」


思考に酔っていた俺を覚ましたのはタクシーの運転手。
降りた時に、目にしたのは空に高々しく飛び去る飛行機の姿。
右手で額を覆って、刺すような太陽を隠しながら、
その飛行機の姿に魅入った。

飛行機に乗り込むまで時間があったので。
行き交う人々の中にある椅子に座る。
そして、よく連絡を取り合っていた携帯を取り出した。

実は、昨日の夜、1度電話を入れた。
何を話すのかなんてまったく考えずに。
無意識の内に俺はのダイヤルに電話をしていた。


しかし。
それが通話に変わることはなかった。


きっと、俺からの電話を拒否したんだろう。
最後の最後に俺の弱さを遮るために。
の声が聞きたくなった俺のエゴを。
は、強い心で受け取らなかった。

近くに公衆電話があった。
それなら出てくれると考える弱い自分が囁く。
荷物を抱えて、公衆電話へと向かう。

テレフォンカードを入れ。
受話器を手で持ち、の携帯のダイヤルを押す。


「……弱い、な」


自嘲の息を吐いて。
その手を、止めた。

はあんなに強いのに。
この俺の様はなんだろうか。
最後だから、と勝手に決め付けて。
の声の温もりが欲しくて。

結局。
離れられなくて、忘れられないのは俺じゃないか。
に忘れられるのが怖くて、別れを切り出して。

弱い。
俺は、弱過ぎる。
に対してなんて弱さだ。

待てる強さがあるとは言ったのに。
俺はそれを信用出来ずに、自分のことばかり。
辛いのは、きっと俺以上にの方なのに。

恥ずべきは、俺。
誇りにさえ思うのは、。
結局残ったのは、未だにが好きだという気持ち。

欠けた左手を求めるように。
俺は右手を握り締める。
もう二度と触れられない、その手を求めて。


トンッ。


触れたのは手ではなかった。
手以上に温かい、顔が俺の背中に凭れかかって。
するりと腰の辺りに回された手に、少し目を見開く。


「……どうして、来た」
「来ちゃ、ダメだった?」
「……そうじゃない」


振り返らなくても見えるのは、
横に置かれたピンク色のスーツケース。
見かけたことはないが、誰のものかなんて。



体温で、分かる。



「思い出だけじゃ、辛すぎるから」


そう呟き、息が。
服を突き破って、俺の心臓まで包み込む。
久しぶりに嗅ぐ香りに。
鼻腔から全身に酔いを運ぶ。


「……これからの方が辛いかもしれないぞ?」
「待ってるよりずっとマシ」
「……」
「だって、この手を離したくないから」


いつも握っていた俺の右手に、
そっと自分の左手を重ねて、指を絡ませる。


「この手で、守ってくれるでしょ?」


確かめるように、ぎゅっと力を込める。
俺もそれに応えるように握り返す。


「俺は、弱い」
「弱くてもいい、それが私のためなら」
「……すまない」
「大丈夫、そんな国光も好きだから」


握った手を引っ張って、
そのまま、全身を噛み締めるように抱きしめる。

周りの雑踏が遠いことのように思えて。
別離された空間で、抱き合っているようで。
そっと背中にまわされた腕さえ、愛しくて。

手に入れた。
俺は、手に入れた。
この左手ごと、全て。


「……一緒に来て欲しい」
「ずっと、待ってたんだから……っ!」


確証を得ないと話せない弱い俺を。
それでも待っていてくれたが。
愛しくて、たまらなくて。

このの左手に。
いつか誓いを立てようと俺は決めた。





「優勝、おめでとう」


生涯で1番柔らかく笑む日に。
の左手に輝く指輪を飾って。

この左手が2度と。
俺の右手から。



欠けないように。






+++++++++++
ひどくベタな設定でスイマセン(^^;
手塚で書くと何故か長くなってしまうんです。
久しぶりにこんなに長く書いてしまいました、アハハ。
手塚を書き始めて比呂士が疎かです!頑張らねば!!
(もっと器用に書けたら良いのになぁ……・笑)



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