なんでだろう。
どうしてこんなに。

気になって。
気になって。
仕方がないんだろう。




096:溺れる魚




「〜!」


胸がドキリと大きく鳴る。
自分が呼ばれた訳でもないのに。
無意識に彼女の名前に反応してしまう。


「ん〜?」
「今から食堂行くんだけど、何かいる〜?」
「あー、じゃあレモンティーのパックお願い〜」
「りょ〜かい!」


彼女の名前を呼んだのは。
彼女ととても仲が良いさん。
よく通るさんの声は。
無情にも俺の声を高鳴らす。

さっきの授業が数学だったからか。
手で口を隠しながら小さな欠伸をして。
目を覚まそうと首を横に曲げて、回したりしている。

それから。
思い出したように、ふと立ち上がって。
俺はすぐさま、視線を彼女から外した。


「佐伯くん、ちょっと良い?」


そう聞きながら。
彼女は遠慮なく俺の前の席に座って。
惜しげもなく可愛い笑顔を浮かべていて。

彼女の名前はさん。
学年でも可愛いって人気があって、
結構狙ってる男子も多いって噂を聞く。


「うん、別に何もしてないから良いよ」
「ホント?じゃあ数学教えて欲しいんだー!
 さっきの授業寝ちゃってさぁ……
 この前聞いたとき、分かりやすかったから教えてくれない?」


別段、数学は得意じゃなくて。
俺は文系の国語とか社会とかの方が好きなんだけど。
さんのためならって予習なんかもしちゃったりして。

少し前に。
結構出来る方の範囲の小テストがあって。
クラスで満点を出したのが俺一人で。
それで、さんが話しかけてくれて。

3年生になって。
初めてさんを見てから、好きで。
一目惚れって本当にあるんだな、と思って。

それから。
さんを目で追うようになって。
一目惚れなんて言葉で片付けなくなるほど。
さんの性格や仕草や声にまで惹かれて。

こうやって話すきっかけが出来て。
俺は必死で数学を勉強した。
好きだ、とは言えないけれど。
出来るほうにはなって。


「ここがこうなるのは」
「うんうん」


さんが頷くと。
サラリと音を出しそうにしなやかな髪が肩から落ちて。
その光景にさえもドキリと胸が高鳴る。

ルーズリーフにシャーペンを走らせる先を追って。
さんは何度も感嘆の声を漏らして。
最後まで解き終わると、可愛い笑顔を、また。


「やっぱり佐伯くんの方が分かりやすいね〜、
 アイツ、何言ってんのかよく分かんないのよね」
「ああ、バネも同じようなこと言ってたな」
「黒羽くんも?
 数学が得意な黒羽くんが言うなら間違いないね〜」
「あ、うん……そうだね」


持ってきたルーズリーフを2つに折りながら。
さんは笑いながら俺にそう言った。

バネの話を振ったのは俺なのに。
さんがバネの話をすると、
胸が、モヤモヤする。
言い様のない苦痛感に見まわれる。



どうしてバネが数学を得意だと知っているのか。



それに思考が支配されて。
さんに呼びかけを何度か聞き逃した。


「佐伯くん?どうかした?」
「……あ、ゴメン。ちょっと眠くて」
「佐伯くん、数学の時間頑張って起きてるもんね。
 でも人の話の途中に寝るのは反則よ?」
「ホントにゴメン」
「なぁんてね!
 数学教えて貰っておいて偉そうな口叩くなって感じよね!」
「いや、そんなことは……」
「!」
「あ、〜」


廊下から教室に入るときに呼んで。
胸にはさんが頼んだレモンティーが。
さんは俺の前の席に座りながら。
ただ、さんに手を振って。


「すっごい混んでた!」
「だろうね、こんな時間に行くなんてチャレンジャー」
「じゃないとA定食食べれないんだもん!
 あ、そうだ、佐伯くん」
「なに?」
「外で黒羽くんが呼んでたよ?」


教室の扉を見ると。
額に手をかざすバネが居て。
そのまま手で俺を招く動作をした。
俺は立ち上がって、さんを向き合った。


「ありがとう、行って来るよ」
「いいえー、どういたしまして」
「佐伯くん!」


また、胸が高鳴る。
さんが俺の名を呼ぶたびに。
その鼓動が日増しに強くなってる気がする。


「ありがとうね、数学」


折ったルーズリーフを広げて。
自分の前に掲示して。
また可愛い笑顔を俺に向けて。


「また、聞いて良いから」


立ち止まって、そう言えば。
さんは嬉しそうに微笑むから。
俺はどうしようもなく切なくなる。

さんに噂がある。
他校の生徒と付き合ってるって。
大きなテニスバックを持った氷帝学園の生徒と
歩いてる姿を何度も目撃されていて。


切ない。
切ない。
切なすぎる。


何度も言おうとしても。
その一歩が踏み出せない。
あの笑顔がなくなることが怖すぎる。
こんなことって今まで1度もなかった。

結構恋愛って得意な方で。
水を得た魚ってくらい上手な付き合いが出来て。
恋愛だったら任せておけって感じで。


それが。
さんと出会ってから。
俺はこの恋に。

俺は、溺れてる。
得意な恋愛の中で、溺れてる。
当たり前のように水の中で過ごす魚が溺れているように。
恋愛なんて簡単だと思っていた俺が、溺れてる。

醜い嫉妬をしたり。
微笑めば切なくなったり。
今まで体験したことのない恋愛に。
俺は溺れきっていて。

ただ、さんが好きで。
ただ、さんが愛しくて。
今までのように軽く出れなくて。
もがき苦しんでいるのに。
その中に居たいと思う、俺。

苦しくても。
切なくても。
それでも。
さんが好きで、仕方なくて。


「何か、用か?」
「なんだよ、機嫌悪ぃのか?」


俺より10センチ高い位置から。
笑いながらそう問いかけて。
俺は扉に凭れながら答える。


「いや、別に」
「今日剣太郎が早めに集合だってさ、
 次の試合のミーティングだと思うけどな」
「そう、分かった」
「……んとに元気ねぇな、熱でもあんのか?」
「バネが心配するようなヘマはしてないよ」
「なら良いけど、無理すんじゃねぇぞ」
「バネってさ」
「なんだ?」
「去年、何組?」
「去年?……2組だけど」
「そっか、ありがとう。ちゃんと行くよ」
「遅れると剣太郎がうるさいからな、ちゃんと来いよ!」


そう言って。
肘で俺の肩を押して、去っていった。
背の高いバネは廊下でも目立っていて。
ズボンのポケットに手を突っ込む姿が確認出来るほど。


「黒羽くんと何の話してたの?」


溜息を吐こうとした瞬間。
目の前にぬっと現れたさんに驚いて、
後退しようと足を滑らすと、扉に頭をぶつけた。


「つっ……」
「佐伯くん!?大丈夫!?」
「うん、頭打っただけだから」


ぶつけた頭を摩りながら。
弁当の匂いが立ち込める教室に身を戻した。


「ごめーん、気になってさ」
「さんは、弁当食べないの?」
「ああ、佐伯くん待ってたの」
「え、俺?」


ふと、見ると。
俺の机の上にさんの弁当袋が乗っていて。


「……さんは?」
「ああ、彼氏と食堂で食べるんだって。
 今日一緒に食べれないからレモンティー買ってきてもらったの」
「ああ、そうなの」
「あ、もしかして誰かと食べる約束してる?」
「いや、大丈夫だよ」
「良かった」


そう呟いて、微笑むさんは。
可愛くて、愛しくて。
胸に積もるのは。
嬉しさと切なさの半分で。

本当は全部聞きたい。
本当に他校の生徒と付き合ってるのかとか。
どうしてクラスが同じじゃないバネのこと知っているのかとか。
なぜ俺と一緒に弁当を食べるのかとか、その他色々。

分からない。
さんのことになると。
思考が正常に働かないんだ。

聞けば良いだけの話なのに。
こうやって口に出せないなんて。
さんの顔からは何も読み取れなくて。

初めての恋愛のように。
胸は些細な出来事でも高鳴って。
抑えるのに必死なのに。

ああ。
こんなの俺らしくないって。
頭の中で警鐘が鳴ってるのに。
その指示通りに身体が動いてくれなくて。

こんなに焦がれる想いは知らないよ。
だから、その想いが外に出たがる。
それでも、この笑顔が俺の前から消えるのは怖いんだ。


「黒羽くんと何話してたの?」
「ああ、部活のミーティングの話」
「そっかぁ、テニス部も大変だね」
「……うん、でも楽しいからね」
「そうだよね、テニスって楽しそうだよね」


先程の席に座りながら。
風で浮きそうになるスカートを押さえて。
思い出すような笑みでそう、答える。

誰を相手に言っているのか。
もしかしたら噂の人かもしれなくて。
俺の胸はきゅうっと縛られる。


「佐伯くん見てたら、そう想う」
「……そうかな?」
「うん、帰りに通ったら楽しそうだもん」


知らない所で。
さんが俺を見た事実に。
今度は俺の胸は縛られたまま、高鳴る。

どうして、こんなに。
この想いは募って仕方がないんだろう。
今まで通りの恋愛じゃダメなんだろう。

出てくるのは。
想いとは関係のない言葉ばかりで。
その度に言えない自分に後悔が募って。
それでも、増して愛しさが募って。

恋をすると。
切なくなるって誰かが言ってた。
どうしようもなく切なくなるんだって。


ああ、分かった。
これが本当の、恋、なんだ。


俺が溺れきってるのは。
さんなんだ。


声を聞くたびに。
仕草を見るたびに。
微笑みを露わにしてくれるたびに。

どうしようもなく。
溺れてるのが分かるんだ。


「さん」
「ん?」
「今度、ちゃんと練習見にきてよ」
「行っても良いの?」
「さんなら大歓迎だよ」
「やったぁ!実は近くで見たかったの!」


この微笑みをなくしたくない。
それくらいなら自分が溺れていた方がマシだから。

この想いがいつ届くかなんて。
俺には分からないけれど。
気が済むまで溺れてみるよ。


「……嬉しい、な」
「え?」
「なんでもないっ」


さんの微笑みは。
俺を締め付けて離さないから。



もう少し。
このままで。






+++++++++++
『切ないくらい片思い』がテーマです(笑)
こういうの1回書きたかったんですが、
根がハッピーエンド派なので中々書けず……!
やっぱりドリを書くのはドリが1番だと思いました。


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