おかしいとは思ってたんだ。
初めてフルネームを呼ばれて。
次に呼んだときは。


「裕太」


だったのは。
あまりにもの言い方が自然過ぎて。
俺は違和感を覚えるのが遅かった。

あの時。
おかしいと。
を捕まえて。

聞くべきだったんだ。




勝てねぇのかよ 中




そんな日が何日が続いて。
は俺の方を向かなくなった。
それはとても寂しくて、つまらなくて。
当然の結果なのに、俺は馬鹿だと後悔して。

部活にも身が入らなくて。
観月さんに帰れって怒られて。
でも到底帰る気にはなれなくて。
どうせなら教室で練習を見ていこうと、
自分の教室に戻れば。


「……ふっ、ぅえ……」


泣き声が聞こえて。
俺は身体を凍らせて立ち止まった。
最初は気付かなかったけど。
この声は、もしかして。


「不二、せんぱい……」


身体の芯から凍りついた。
声の主と、呼んだ名に。
見覚えがあるどころがよく知っていて。

急に、怖くなった。
そういえばは転校してきて。
前の学校は……俺は、どこか知らない。
兄貴は何も言わなかったし。
それどころか学年が違う。
全然、接点なんかないと思ってた。


「……うん、今から、行きますっ」


のその声に我に帰って。
俺は急いでその場から走った。
いつもの非常階段まで逃げて。
生きた心地がしないまま、階段で倒れた。
気絶したんじゃなくて。
足が絡まって息が荒いまま倒れ込んだ。

身体は痛くない。
心が、音を立てて軋みだす。
決壊するまでそう時間はないだろう。
大きな音をたてて俺自身を崩すまで。

自分の荒い息音が遠く聞こえる。
まるで壁一枚隔てた先の出来事のように。
もう今は何も考えられない。
真っ白な世界に一人取り残されたみたいに。

白が、俺の思考を阻む。
そして、影からの黒が俺の心に泥を塗る。
ドロドロと。
嫌な音を立てて俺の心に流れ込んでくる。

何も考えられないけど。
一つ分かったことがある。
黒い感情が教えてくれたんだよ。


何故俺の下の名前を呼んだのか。
それは。



"不二"という名は。
俺の兄貴に対して使っていたから。



なんでだよ。
なんで。
なぁ、なんでなんだよ。

なんで。
よりにもよって。


兄貴なんだよ。


結局俺は。
兄貴には何にも勝てねぇのかよ。




いつまでも階段に寝そべってるのも変だし、
俺は一度起き上がって階段に座った。

目の前にある窓から。
俺を慰めてるように夕日が差し込んで。
―――――って、そんなことあるはずねぇけど。

ああ。
そういえば。
思い出してきた。


が転校してきたこと。




俺は、あの頃から止まったままだった。
中2の時に氷帝の芥川ジローって負けた時から。
青学VS氷帝戦で。
兄貴は軽々と芥川ジローに勝って。
俺は兄貴を目標にしようと決めたけど。

それから。
兄貴に近づく気配は見えてこないし。
俺がいくら努力をしても。
兄貴はその上を行って。
魅せられるその実力、才能の差。

観月さんのいう練習メニューはこなしてるけど。
本当にこのままで良いのか、なんて悩んだりして。
赤澤部長や木更津先輩や柳沢先輩は励ましたりしてくれたけど。
俺は何だか置いてけぼりをくらったみたいで。

こうやって。
この非常階段で。
夕日に照らされながら悩んでた。

今更だけど。
テニスは辞めた方が良いじゃないか、って。
望みのないモノは早めに切り上げて。
傷にならない内に自分を守れば。


「不二裕太くん、だよね?」


後ろから声を掛けられて。
フルネームを呼ばれることなんて滅多にないから。
ゆっくりと、振り向けば。


「初めまして、です」


俺が悩んでるのに。
階段の1番上で満面の笑顔で。
スキップするように軽々と。
そして、1段1段踏みしめるように降りてきて。


「裕太、テニス好きなんでしょ?」
「え……」
「自分がしたいと思うなら辞めちゃダメだよ、後悔するから」
「……」
「私からの優しいアドバイスでした、じゃあね」


止まらずに。
そのまま俺の横を過ぎ去って階段を下りていった。
呼び止めようと思ったけど、言葉が出なくて。

俺は声に出してたかと思った。
だから、そうは言ったのかと。
でも、そんな覚えはないし。
そんなに俺は間抜けじゃないはずだし。

でも。
実際その言葉で。
俺は何だか救われたような気がして。
単純だ、って別に笑われても良い。
誰かにそう言って欲しかった。

本当は。
"後悔する"ってもう1人の自分が叫んでた。
それに聞く耳を持たずに俺は悶々と悩んで。
やっぱりテニスは好きで。
ボールを打つ感触が忘れられるはずもなければ、
相手に勝った時の達成感も俺の身体にもっと染みこませたい。
勝つ喜びを、もっと知りたい。

自分に正直になることを。
改めて思い知らされて。


それから俺のクラスに転校してきて。
最初は接触を避けていた。
席も離れていたし、も何も言ってこない。
もしかして夢だったのかも、と。
現実逃避のようなことをぼぉっと考えてた。

半年くらい話すことはなくて。
そして先日初めて席替えで前後になって。
俺も何もなかったように振舞えば。
もちろんも何もなかったような顔で。
やっぱり夢だったのかな、って。
そして、改めて友達になったような気がして。



でも、夢じゃなかった。



俺の名前を知ってたのは。
兄貴から聞いてたからなんだ。
兄貴は勘も良いから。
俺がそうやって悩んでるのも知ってたんだ。
だから、を使って俺にそう言ったんだ。



の言葉は兄貴の受け売りで。



そう考えると。
すげぇショックで。
人生最大のへこみを味わって。

本当に俺はテニスを続けてて良かったのか、って。
また考え出してしまう自分が。
ああ、もう嫌だ。
全部ヤダよ。



最低だよ、俺。






+++++++++++
終わらなかった……。続きます。


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